『演劇ぶっく』&『Men's non-no』

演劇ぶっく』no.127, 2007-6

 昨日は大慌てでお騒がせいたしました(笑)。
 本屋さんで買って、ぱらりと表紙をめくった途端にあの美人さんがこっちを睨んでるから、どうしようかと思いましたよ、いやほんと。

 
 青白く、燐のように発光してる未來さん。
 舞台のような照明にくっきりと浮かび上がってくれちゃって、色は白いわ唇は赤いわ、睫毛に縁取られた目は強いわ……。ほっぺに微かにそばかす見えるのが辛うじて微笑ましさを感じさせるけど、総じてこの世のものとは思えない綺麗さだよ!


 テキストも興味深く読みました。
 その通りですね…。本能に衝き動かされるというのは、「自分自身を求める」究極の行動。せめぎ合う精神が相互に自己に向かい合って発熱し、それが奇跡的に同じ方向の行動を選ばせてしまったら最後、もうどんな理性も本能をコントロールなんてできやしない。
 その意味においても、「自分自身を求める」“個”だけでは成立しない『血の婚礼』の世界。複数の「求める魂」のせめぎ合いで再現されたロルカの世界…。

 
 「現実逃避」の記事、うん、憶えてる(笑)。ブランコに腰掛けた可愛い15歳の少年の、ニッコニコの笑顔の側に書かれたその不釣り合いにも見える四文字は、確かに不思議な存在感がありました(苦笑)。
 ライターさんが言う「逆説」という言葉はあまりピッタリ来るとは思わないんだけど…。でもまあ「逆説」なのかなあ…。
 確かにある種のパラドックスを含みはする。でも、それを通してこそ本質をつかんでいられるという確信、そこに至るまでの、彼の思索の経路があってこそ意味を持つ「現実逃避」だよね…。決してうまくいくとは限らない「現実」のコミュニケーションから逃避して、身体が雄弁にコミュニケートする「舞台/ダンス」の「現実」に、自己の実体を求め続ける。しかし、その段階で、何が「現実」かという位置取りは彼の中で鮮やかに入れ替わっている。「逃避」が意味するのは、真正面から向き合うことを投げ出さないってことなんでしょう。それを「逆説」というならそうかもしれない。ただその言葉を吐いてても「逆説」というレトリックとは無縁な立ち姿…。


 …って一体何をごちゃごちゃ語ってることやら(汗)。
 でも、この記事の最後、図らずもライターさん自身が書いておられるのを読んで、やっぱり書かないではいられない気持ちになっちゃったんです。
 いえね。「生身を削って」という言葉、些か気負って聞こえたという、会見でのその言葉、それが、渡辺さんのギターとともにひとたび彼が踊り出すや、思いが言葉以上の熱さで伝わってきたという、確かな記録…。
 この事実こそが、彼の伝えたかったことを雄弁に物語ってるんじゃないか…と、まあつまり私はそう思うわけです、はい(苦笑)。

『Men's non-no』2007-6

 こっちは、『演ぶ』とは打って変わって、とっても男っぽい写真ね〜。大きく空いたVネックがワイルドですわ(笑)。
 お隣の新納さんがかっこいい♪年齢不詳だよね〜(笑)。
 忍成くんの楽しそうな笑顔に癒され、瑛太の不思議君に苦笑いし(太った?)、小出くんの綺麗な肩胛骨と可愛い子ちゃんぶりにホクホクし、小栗くんには、Tシャツか何かわからんぞ〜!と突っ込ませていただきました。ニノも端正だね〜。
 妻夫木君は、寝不足ですか?可愛いんだけれど、ちょいと暑苦しい髪型だな(笑)。かっこいいからOKですが!