『僕たちの戦争』「感じたこと」その3


 吾一です。


 このドラマ、物語、で、「たった一人の健太」に対比される吾一、その意味をずっと考えてるんだけれど、いろんな解がくるくる回って収拾がつかず、いつしか、どれもアリなんだろうなってところで落ち着いてしまう。

 というのも、「健太」が過去の世界に放り出され、その中でいろんなことを知り感じ、ミナミを愛する気持ちの核心をつかみ取る過程を描くなら、健太の入れ替わりに吾一という人物を呼びこむ必要は、極端に言えば,無い。それなのに、原作が単独のタイムスリップじゃなく、「入れ替わる」というモチーフを選択したのはなぜなのか。吾一は健太にとって何だったのか。
 人間の本質や核心部分は、時代によって変わることはないーー「俺たちと何にも変わんねえんだよ!」というメッセージの為には、健太一人でも装置としては十分なところに吾一が登場する意味、それを考え始めると、止まらなくなるんです。ばかだなあ…。
 でも、それも今日で、止めるぞ(苦笑)。


 以下、またまたくだらなく長いので、畳みます。





 私が妄想するに、吾一は、最初から健太の一部、というか、健太と吾一は最初から1つの人格ーー記憶と言ってもいいーーを共有してたんだろうと思う訳です。最初から同じ1人を共有する「2人」。それぞれは、時空を超えて引き離されていた半身で*1、それがタイムスリップによって、別個に刻んできた時間を互いに埋め合うことになるという…。そして、最終的に沖縄の海で「2人」は交錯(融合)し1つになる。ミサンガが切れて健太の境界が外れるのは、その象徴。
 小説では、2人が1つの記憶を共有することを示すリンクが、いくつか隠されていました。ドラマではすべて端折られてたけれど…。気のついた点を幾つか挙げてみますね。

  1. 大洗海岸(これは記憶じゃないけど、2人が同時に同じ体験をしていることを示す例、として…)
    • 鴨志田の家で酔っぱらった健太、真夜中に目を醒ます。時刻は午前2時過ぎ。思い立って大洗海岸に出かけ、暗黒の海に泳ぎ入る。しかし、闇の海の恐怖に畏れをなし、夜明けを待たずに海から退散。(単行本p.374〜376)
    • 61年後の同じ日(たぶん)、未来に飛ばされた吾一は健太のベッドで、暗黒の、ねっとりした夜の海に潜る夢を見る。海底に引きずり込まれそうな恐怖に目を覚ますと、時刻は02:11am。その後、吾一は車に乗って大洗海岸へ。車で飛ばせば30〜40分だ、夜明けまでにはまだ時間があるだろう、という独白。(同p.376〜377)
    • ここでは、明らかに2つの半神は呼び合っていたけれど、どこかで何かがずれたんだろうな、ニアミスで一体化は失敗します。でも、問題は次の交錯。クライマックス。
  2. 沖縄伊江島
    • ミナミと初対面の吾一。「ミナミ」という名を聞いて、ふいに行ったことも無い南の島、やしの木の下で、腰に布を巻き、ブーゲンビリアの花を髪に挿した娘の姿が脳裏によぎる。(同p.113)
    • 健太が航空隊で迎えた最初の朝。ベッドで身を守るように胎児の形に身体を丸めていた健太。夢に出てきたミナミは、見知らぬ南の島で、やしの木の下に立ち、ブーゲンビリアを髪にさし腰に布を巻いている。それを見て、「はるか昔に見たことがあるような夢だ」と健太は思う(p.207〜208)。
    • 吾一。フェリーが伊江島の島影を捉えたとき、ぞくりという感覚を味わう。既視感より、もっと強い感覚(同p.401)
    • 8月16日、フェリーの出発までの時間を利用して最後に海に潜る吾一。海岸にたつミナミの姿に、初対面の時に脳裏をよぎった娘の姿と同じだと思う(同p.420)。
    • 吾一は海に捉えられる。心臓の鼓動、羊水に包まれる感覚。(p.426)ドラマではこの場面、吾一@未來さんは、完全な胎児の形で海にたゆたっていた。生と死との、死と生との、ちょうど中間に位置して、息を、いや肺呼吸をせずに…。吾一と健太にとって、「死」は、「生まれる前」でもあるのかな。


 健太が、かつて見たことがあるように思った「ミナミの夢」と、吾一がミナミを見て最初に脳裏に浮かべた「娘のイメージ」。これは伊江島のミナミの姿であったことは、間違いないですよね。その姿は、「海に入る」吾一が見たミナミの姿であるし、「海から再生」した「健太」が眼前に目にするはずの、海辺にたつ娘?ミナミの姿です。
 伊江島のミナミの姿を、吾一と健太は共に記憶の底に留めていたことになります。病院で尿意に襲われてミナミに支えられる吾一、ミナミの髪に花の香りを感じて、遠い昔に嗅いだ記憶がある、何だったかな?とぼんやり考えるシーンもあったし…。この花は、ブーゲンビリアを暗示しているのかもしれませんね。あ、但し、伊江島のシーンで、ミナミは実際には髪にブーゲンビリアをつけてません(苦笑)。でも、健太が穿いてたサーフパンツはブーゲンビリアの模様ってことだし、ドラマでは、沖縄の海のシーンで、ドーンと真っ赤のブーゲンビリアが画面を覆ってたし…。やっぱり、モチーフとして、ブーゲンビリアは大事なはずですよね。


 こんな風に、ミナミを挟んで2人の時間が引き合っていたってことは、2人がバラバラであった時から、実は既に一体であったことを意味するんじゃないか、と思うのです。それが共に胎児のイメージと結びついている(健太の「胎児」イメージは、修辞として少し弱いけど)ことも、示唆的で…。再生のトンネル、扉、鍵……、そんなものを想起させます。
 

 吾一と健太は、最初から1つの存在、いやもしくは、追いかけ合って生を循環していた1つの人格だったのかもしれません。「入れ替わった」のは、それぞれの、自らの、記憶の底に遭遇したということ。吾一の中に健太は生きてるし、健太の中に吾一も生きている。通常なら知り得るはずのない自らの「半神」を、有り得ない偶然が引き合わせて、健太は吾一を知り、吾一は健太を知ることとなった。とすると、「入れ替わった」のではなく、「輪廻の順番が少し前後した」ということになるのかな…。
 だから、海から上がってきた「健太」は、吾一の存在を取り込んで生まれかわった「健太」。吾一の記憶は健太の中に生きるし、一方の健太の記憶は、次の生を待つ「吾一」の中に守られることになる。


 そんな風に考えてくと、健太に肉薄しつつあった「吾一」は、「健太」が帰ってくるその場を守ってくれていた、ってことになるかな。吾一が守った「場」があるから、いろんな意味で生まれかわり再生した「健太」に、ミナミも、パパさんもママさんも、もうきっと二度と驚かない。本当の、この世にたった一人の「健太」が戻ってきても、もう誰も「頭がおかしくなったんじゃないの?」なんて思わないはず。吾一は健太に追いつき、健太は吾一に追いついた。半身だった2人は、やっと1人になれたってこと、かな。
 

【追記】
 というより、ずーっとミナミの前には健太しかいなかったのかも知れない。入れ替わったのは、意識下の「記憶」だけで。肉体はずっと2人のまま…。だから、ミナミとの間の子どもも、健太の子ども。二つの記憶をもって、再び健太が海から帰ってくる。そういうことかもしれないなあ。…なんて、今日思った。(9/28朝)
 よろしければ→をごらんください…。→28日の日記



 いやあ、全然、「戦争もの」として見てませんね(苦笑)。かといって、「輪廻転生」って訳でもないですけど…。あ、ドラマの感想ですらないかも…。すみません。ただ、目の前に投げ出された文脈を、ついついあれこれひっくり返してしまう悲しい性で…。考え過ぎ、ですよね…。


 
 ああ、君のため。
 
 

*1:半神@萩尾望都って言葉をところどころ使わせてもらいます。