『マクベス』三種読み比べ(駆け足)

 気分転換に『マクベス』を読んでみる。家にあった岩波版と新潮版を、先日買って来た松岡和子訳*1クドカン脚本の土台となったという新訳)とパラパラ読み比べながら。

シェイクスピア全集 (3) マクベス (ちくま文庫)

シェイクスピア全集 (3) マクベス (ちくま文庫)

 
マクベス (岩波文庫)

マクベス (岩波文庫)

 
マクベス (新潮文庫)

マクベス (新潮文庫)


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 で、正直な感想なんだけど。
 あの…。これで、シェイクスピアを読むことになってるのでしょうか?松岡訳。
 芝居の脚本作成の土台としての位置づけならいいってこと?


 ぶっちゃけた話、単独で読むに足るシェイクスピアの翻訳とはとても思えない。「下訳」みたいじゃない?これ*2。脚本化するにはこれくらい没個性な方がいいのかな(苦笑)。これなら、古くても新潮の福田恆存訳とか岩波の木下順二訳の方がずっと完成度が高いし、だいいち日本語が美しい。


 松岡訳を読んでクドカンさんが「どういう意味なんだ?…良い意味なのか悪い意味なのか、むしろ良い意味なんじゃないか(笑)」と戸惑ったというマクベスの台詞は、松岡訳では、確かに意味の解釈&伝達を放棄した訳に、私なんかの目には見えちゃう。

  • ああ、お前、俺の心はサソリでいっぱいだ!(松岡訳:ちくま文庫p.89)

 でも福田&木下訳なら、こうなる。

  • ああ、おれの心の中を、さそりが一杯はいずりまわる!(福田訳:新潮文庫p.60)
  • ああ!妻よ、無数のさそりが俺の心に巣くうている!(木下訳:岩波文庫p.72)

 文脈から言っても、主君暗殺という大罪を犯した男が、罪の恐怖に心が苛まれていく、精神が行き場を失い遂に暗黒になだれ込んでいく。そのおぞましさ、まがまがしさの象徴として、自分の心をサソリがシャラシャラと這いずり回る、と表現しているのは明らかだ。そして、先行2つの翻訳では、その流れに沿う日本語が訳者によって選ばれている。


 ほかにも…


 っとっっと、あかん、こんなこと書き始めたらまた戻って来れなくなる(苦笑)。
 この原訳ならきっとクドカンさんの脚色の方が数倍おもしろいに違いないな(笑)。なーんて、ほんま、偉そうな何様発言です、すんません(汗)。でも、期待して読んだのでちょっと拍子抜けだったんです。現代日本語らしくはなってる、かな?それもちょっと首をひねりました…。
 まあ、確かに、いまさら坪内逍遥訳って訳にもいかないだろうし、上のお二人でも個性が強すぎるのかもしれません…。
 でもさ、坪内逍遥に基づいたヘビメタシェイクスピアなんて、とってもカッコいいと思うよ(笑)。

 
 あ、あくまでこれは私の個人的なくだらん読後感です。本との出会いは人それぞれだし、松岡訳が好きだ☆って人もたくさんおられると思います。うん、私はひねくれてるんだな、きっと。

*1:ちくま文庫

*2:えらそーだな:汗