いろいろ長々しい感想。

血の婚礼について

 福岡での感動からもう4日経ってしまった。
 実は、最前列というすごい場所であの一部始終を見てしまったのでしたが、その位置からだけじゃない、これまでの全てを出し尽くすようなエネルギー、一滴の血すら明日には残さないという、強大な力…肉体も心も…を終始とぎれることなく感じ続けた2時間でした。
 幾つか、ポイントに絞って感想を書いていこうと思います。
 行き当たりばったり、書き始めます。


(1)馬のフラメンコ。
 情熱とか、気迫とか、そんな風な常套句では収め切れない、熱そのものであり、かつ気そのもの、そんな洪水のような力が、まるでシャワーのように森山未來という人間から放出されていました。見ているこちらも、息をすることすら忘れ、吸い込まれるように見入るしかない。ターンは足が地面にめり込んでいるかのような安定感、高くジャンプして片足を折って音もなく着地する姿の美しさ。正面を向いて、ピンと伸ばした足先を高速で側方に蹴り上げていく。蹴り上げた足を素早く掌にスパークさせたかと思うと、手と頭が見事に反応してキリリと正面を見据える。そのそれぞれの動き全てがピンとエッジが立っていて、強いバネのように大きく撓み収縮し、解き放たれ続ける膨大な熱量…。考えてみたら、ほんの一秒かそこらの内に、身体中のどれだけの筋肉と神経と骨を、大きく力強くしかも美しく動かしているというんだろう…。その超人的な運動量と、しかもそこにこめた心の総量に、見ているこちらの心も翻弄され、巻き込まれ、彼が竜巻のように地面に蟠る時には、思わず声にならないため息をついて、自分が生きていることを確認してしまう有様…。
 福岡は、このエネルギーが飛んでもなかったです。いつも終わった後、彼は荒く息を継ぎしばらくハアハアいう声が聞こえたのですが、福岡では、着替えに奥に歩むときにフラリとよろめくようでドキッとしたのを皮切りに、その後も、ずーっと、赤ん坊を見に行こうでも、ちゃぶ台を返した後も、私たちどうしちゃったの、の後も、ずっとずっと、妻との会話の間中、息が収まりませんでした。そんな荒い息づかいの中、「お前見たのか…」が、ぞっとするほど冷たく言い放たれて、思わず背筋が寒くなりました。レオナルドの深い心の闇、何かを強く憎み続ける宿命の姿が否応なしに露呈した…そのことを感じて、ぞくっとしました。レオナルドは、何かを死ぬほどに憎み、そして愛している。


 フラメンコとして彼のダンスがセオリー通りかは、私にはわかりません。たぶん違うんだろうな。何度も彼が言っていた、様式としてのそれを一旦壊して、そこに新しい命を注ぎ込む。そういう舞踏を目指し、そして間違いなくそれによって観客の心を揺さぶっていた、そう思う。後でも書くとおり、この原作が、スペインから日本という土壌に普遍的なの心を持ち込んだ、その手法と同様の、いやむしろ、それを最も先鋭的な形で、この人の踊りは象徴していたんじゃないかな。フラメンコの心を鷲づかみにした魂そのものとして、一つのスタイルを獲得していたと…。身体と魂の臨界点が、彼のダンスに確かにあった。でないと、こんなに見る度に胸打たれはしないよ!と…。


(2)森の中の2人
 千秋楽でのあの愛の溢れ方といったらなかったです。特に最後、レオナルドが覚悟を決めたところで、2人が交わしたくちづけの甘さと哀しさ…。破滅するしかない宿命。真横にぱっくり奈落が口を開けて待ちかまえているのに抑えきれない若さと激情が迸る。2人が命を賭けて求め合う姿は、ほんとに哀しくもこの上もなく美しくて、泣きながら見入ってしまいました。
 実はこれまで見た通常のドラマや映画で、私は、ラブシーンによって感動が深まったという経験をしたことがありません。そもそも、ラブシーンが多い演目は見ないってこともあるけれど(苦笑)。まあ、少年少女のかわいいキスくらいなら良いんですけど。
 でも、今回の舞台は、因習や土地、さらに血の束縛と澱みを扱う中に、男と女の本能が描かれ中心に据えられたもの。脱出の膨大なエネルギーとそれを包囲する不条理を訴えるために、激流に押し流される若い愛と性を前面に押し出している。舞台全体を覆う詩的で絵画的な空気にあって、敢えて一切の舞台修飾を廃し、赤裸々に情念のぶつかり合いとして見せつける、このシーンの手法が、これほど悲痛で雄弁で、それでいて美しいものとして感じられるとは…。ほんとうに、目からぼろりと大きな鱗が落ちた、そんな風な、なんというんだろ、べろんと仰向けに転がされた亀になったような(?)、衝撃的な感覚でした。いやほんまに、こんなに美しく悲しいなんて思いもしなかったんですもん…。上にも下にも、いろいろ理屈っぽいこと一杯書いてますけれど、このシーンだけはだめ。脳みそは動いていない。ただただ愛とエロスの美しさになぎ倒されるような、そんな思いで息を呑んだ。ほんとに、こんな経験、生涯で初めてだったです…。
 でもこの先情熱的なラブシーンへの垣根が低くなるかというと…?それについては、若干悲観的です(苦笑)。


(3)クライマックス(葬礼の場)の人間性
 実は、この舞台のどのシーンが一番好きかと指おる時に、もちろん馬のフラメンコ、森の2人は最上位にあるんですが、妻を切なく抱きしめるのも大好きですが、そんな数あるシーンの中で、間違いなく、相当の上位に食い込むのが、ラストの花嫁のなりふり構わぬ愁訴の叫び、それを罵倒し唾棄する花婿の母、このシーンです。毎回、このシーンで、舞台上手からよろよろと花嫁が歩み出る時には居ずまいを正したくなる。座席を座り直す勢いです。
 いま思い出しても涙が出る。自分の身は潔白だ、純潔だと訴える花嫁のおどおどとした目線、言い募るうちに、自らの感情を抑制できなくなって取り乱す花嫁。
 「あんなこと、ほんとはしたくなかった!」
 涙ながらに叫ぶ花嫁のこの台詞でいつも涙腺が決壊します。ああ、なんて憐れで弱い言葉なんだろう…。花嫁の言葉はすべて真実で、叫びながら、彼女は何も考えていない。自分がしたこと、それを言って良い立場なのかどうか、神父に懺悔するならいざ知らず、よりによって当の花婿の母に言って良いことなのかどうか、そんなこと、彼女はもう何も考えられない。あるのは、生きながらえている自分の弱さに敗北した、憐れな魂だけ。直前の森のシーン。「2人が離れるのは俺が死ぬときだけだ」と言ったレオナルドに、「そうしたら私も死ぬわ」と泣きながら言った花嫁…。その時の花嫁の涙も真実。嘘をついた訳じゃない。決して。
 でも、彼女は死ななかった。死ねなかった。彼女を本能へとつき動かした激流は、全てが通り過ぎてしまったときに、彼女自身が自分の責任に納得できるような時間を与えてはくれなかった。全てが一瞬の出来事。直前まで、逃げることなど夢にも思っていなかった花嫁にとっては、やはり夢中の内に、飲まれた押し流された、それだけが残る、刹那の破滅的な激情だったんだと思う。だからこそ、「あなたでもそうしたでしょう!」という言葉が口にできる。彼女の個性が考えた結果じゃない。激流がそうさせたんだもの、暗い川が私を押し流してしまったんだもの。あなただって、その流れに逆らえやしないでしょ!…それに対して、誰も否定の言葉を口にしないことだけが、もしかしたら唯一の彼女に与えられた救いなのかもしれない。その彼女に残されたのは、純潔であるという記憶のみ。「それが何になるのさ!知ったこっちゃないよ!」 他人にとっては、一切の価値ない、耳にもしたくない、花嫁の「純潔」…。でもそれにすがりつき、最も哀願してはいけない人に必死に訴えまとわりつき、火に手を突っ込んでみせる!という(その前の、鋤や鍬で胸を突くのもそうだけど)、中世の魔女裁判さながらの裁きをすらも求める花嫁の、取り乱した姿…。
 弱く、愚かで、憐れな人間…。誰もがジャンヌダルクになれるわけじゃない。歴史の流れの中で、背景として地面として踏まれて、生きるしかない人間の宿命。
 全篇の中で、花嫁と花婿の母との本音をぶつけ合うこのシーンは、最も究極の人間を赤裸々に表現したと言い得ると思います。花嫁の、愚かしくも哀しくも、それに強く勝る、生きさせて!という叫び。それに対して、背中を向けたまま「勝手にお泣き」と生きる場を与える「母=歴史の掟」に(これも一個人の個性ではない…)、言葉に尽くせぬ思いを抱きます。
 この作品では、レオナルド以外に個性は与えられていない。それが白井脚本にも徹底的に貫かれていたと思います。花嫁に存在の場を与えたのは、母の個性じゃないと言いました。だって、そんなことは、母には判断はできない。判断しないことが、結果的に許可を与えるという、土地のシステム…。直前の逡巡がものがたってます。「本当だったら眼ん玉くりぬいてやるんじゃないの?!だとしたら、息子の名誉は…」。一瞬の激情に身を委ねた後、彼女はこのまま黙って墓守としての余生を過ごす身支度を整える。これまでショールに隠してきたのと同様に、新たに花婿の亡骸を守る身支度を…。レオナルドの妻も、自分の母さんと同じ運命を甘受するでしょう。それじゃ花嫁は…。「あなとも同じことをしたでしょう!」という叫びに同化されたように、やはり、花婿の母と同様に、残りの生を生きるはずです。
 ラストの血。必死になってその血を掬い取ろうとしていた花嫁の、我を忘れて取り乱した有様…。冒頭で、夫と長男を殺され、その血に染まった土を掬い上げて舐めた花婿の母、その若い姿さながらか…。「またやってきた。同じことの繰り返し」。池谷さんー女中のことばが蘇る。この世には、敵か味方か、二つしかない。そして、その二つは、ともに同じ小さな器の中…。
 そんな、様々を考えさせられる、このラスト。ソニンちゃんと江波さん、この2人の女優の力と力のぶつかり合いでした。何度となく、江波さんさえもソニンちゃんともつれ合う中でなぎ倒され舞台に打ち据えられている姿に、役者として別の生を板の上で生きてみせる迫力を思い知らされました。舞台に立つ全ての人が、生身を削り、全てを放出し、叫び、見苦しくわめき、そして涙して生きたこの舞台。その象徴は、やはりこのラストの女達の立ちすくむ姿にあったと思えてなりません。
 個性が無に帰す…。言い換えるなら、レオナルドが生きて、死ぬ…。彼が死なねばならなかったのは、女達を生かす土地のせい。彼が命を賭けたのも、土地が生かした女のせい…。このあたりに、普遍的なテーマがあると、私は思います。20世紀初頭のアンダルシアだけの問題じゃない、普遍的な人間のテーマ。


(4)月。
 これは、本当にいろいろ思う。その時、尾上さんの存在抜きでは語れない。
 レオナルド以外に個性が許されない舞台。もしも、唯一、「個」を与えられているのは何?というなら、これは間違いなく「花嫁」ではなく「少女=月」だと思う。人間じゃないけど…。
 少女も、レオナルドと同様、土地に同化されない存在。レオナルドは犯罪の血を背負い、少女は障害という運命を背負う。その両者を容認する村社会の掟は、当人が望むあり方は用意しない。それに相応しいとムラが規定したあり方でしか受け入れない。少女に向かって「どうしてそんなに結婚したいの?」と問う花嫁。結婚して子を産むのが必然の旧社会。いちいち1人の女にそれを聞く必要がどこにある? 
 求めてはいけない愛を求めたレオナルド。同様に、求めることが許されないオレンジの花飾りを求めた少女。その両者が敵対の構造におかれるところに、原作ではない白井オリジナルの、作品世界を冷徹に見抜いた視線が生きているとつくづく思う。この作品内部には、寸分の救いも存在することは許されない。そのことを通り越して、より明確なかたちで退路を断ってみせる、いや退路に刺客を潜ませたというべきか。
 少女が月に変貌するおぞましさ、尾上さんの表現は、東京より大阪、大阪より名古屋へと、どんどんどんどんとキレて赤裸々になり、そして最後の博多では、眼は血走り、白い身体は上気し、背筋の寒くなるようなトリップ感と儚さが交互に襲うというすさまじさでした。花嫁の常に先を行く少女。レオナルドを追い詰める月。
 死が救いであった、という考えは私はとりません。ロルカの中でもそれはないでしょう。日本的には定型として「心中」が許される古典の世界。キリスト教的なのか、それとも30年代のレジスタンスがそうさせるのか、ともかくこの戯曲は、「心中」が来世に預けた下駄をはき続ける。ぼろぼろでもはき続ける。


(5)「血筋」「土地」というターム
 普段の生活では、ほとんど使わなくなった「血筋」「家系」といった言葉が、この舞台では何度も登場しました。個人としては、むしろ使うことを拒むタイプの、そういう言葉です。それを、かなり意識的に用いた白井脚本。もちろん、原作は使っているんだけどね。それはその時代性…。だから、この時代がかった響きの言葉を敢えて残したところに、原作とは別の、恐らくはかなり大きな意図があったんじゃないか、と思うわけです。この語の縁語として密接な関係を持っていたのが「土地」ということば。「土地のせい!」とレオナルドが叫ぶとき、彼が嗅いでいたのは花嫁の血のにおい。それは、自分を疎外する土地のにおい。彼が命を賭けて愛したものは、彼が死ぬほど憎んだものと、実は表裏一体だったということなのかな。その愛憎の象徴は、ドラマのクライマックスで、花嫁が悲痛すぎる叫びとともに訴えた身の潔白、土地への忠誠、いや隷属の証として、あからさまに観客に示される。レオナルドが憎んだ花嫁の「自尊心」…、それは土地の「奴隷」として生きることとも表裏一体だった。レオナルドはそれを憎悪しつづけた。隷属に列なれば、それは「土地」として与えられ、自由に列なれば、それは「忌むべき血筋」として排除される。幾重にも重なる二律背反。ロルカの愛し憎んだ郷土への複雑な感情、それを白井演出は、時代も異なる地球の裏側、ユーラシア大陸の東の端に、鮮やかにではないかも知れないけれど、ごりごりと移植してみせたと思う。
 上にも書いたとおり、この舞台に表すのは、スペインのまねごとの空気である必要はない。そこに潜む、根源的な情念を、日本にもある同種の存在に結びつけること。その作業は、問いかけとして十分な力をもっていた、そんな風に思います。生意気な言い方かもしれないけれど、ほんとにそう思う。


 そんないろんな感想をもった血の婚礼。
 まだまだ思うことはあるけれど、書きすぎることの弊害、最近いろいろ感じるのでこのあたりで。すみません。言葉数が多すぎますよね、私(汗)。


 さて、そろそろ私の中でも「血の婚礼」、幕を下ろさなきゃ。レオナルドの残映は今もって、全く脳裏を離れないけれど。
 感動のすぐ後に深い寂しさとつき合わねばならない…これはこの人のファンになった「宿命」なのかしらね(苦笑)。