BatBoy@2006


 これはアメリカの物語です(笑)。オフブロードウェイでロングランを記録した、シニカルでブラックな舞台だったと聞いています。
 基調にキリスト教的秩序を笑うという世界観がありそうです。アダムとイブの原罪や、「親殺し」と「近親相姦」という二大タブー…。一種エキセントリックにこういうテーマを取り上げてその上でブラックに嗤う、というかなりキワキワのテクニックが要求され、それが恐らく成功し、話題をさらったのだろうと想像します。
 当然の事ながら、笑う為にはその空気が共有されていないといけません。そして、日本のこの場に、共有すべき空気は有りません。じゃあどうするのか。


 2005年のBBは、それが不思議に日本化し、一種「心中物語」の色彩を帯びていました。キリストの教義社会へと収束し崩壊した家族の秘密と罪は、より日本的な、異形への疎外(ムラ社会)と一家心中譚へと変貌を遂げていました。それは、私たちのメンタリティーに合致し、しかも、その中心には、そのまま燃焼し続けると全てがその色に燃え上がってしまうようなとんでもない強い磁場をもつ、20歳の、後先のことを何も考えていない、森山未來と言う、退路を断ったサムライのような人物がいました。それが、この作品の日本化にこの上もない大きな影響をもったのではないかとすら思っています。
 平穏で敬虔な暮らしに波風を立てて、既存の秩序の滑稽さを赤裸々にしてその全てを崩して嗤い飛ばすには、異形で、しかもこの上も無く魅力的なエドガーが必要、それが舞台でどのように有効に機能するか、これが重大ですよね。それは、たぶんアメリカであろうと日本であろうと、同じ事だろうと思います。
 それが、2005年BBは成功してた。ええ、未來エドガーに中毒状態で11回見た、その結果の感想ですから、偏ってるのは先刻承知です。はい、その偏った視線のまま、このままこのまま、議論を進めます。



 今回のエドガーがそれだけ異形で魅力的だったか…ですが…。
 私はリックに追われたエドガーを、メレディスシェリーが探しまわる場面、シェリーが「私、エドガーを愛してるの」と言った、そのことばを受け入れられませんでした。去年は、そりゃもう愛さないでいられないだろう、こんなにチャーミングなエドガー…。って涙したもんでしたが、今年は、え?いつあなたエドガーを好きになったの?なんて思った。だって、こっそり2人で甘いダンスをしてたはずのシーン、今回あなた背負い投げ食らわされてたじゃない。一人の男性として好きになって行くことの説得力が、全然表現されていない。家族として好きなのはわかる。片言しゃべってとってもかわいいし…。でも、どうして結婚したいとまで思ったの?二大タブーを犯さざるを得ない過程が理解できない…。これなら、単にはずみでって感じですよ(苦笑)。
  
 エドガーの存在によって顕在化する、修復し難い夫婦のひずみ、そこには2人が抱える大きな「罪」の歴史がある…。けれどそれを隠して各地を転々とし、コミュニティーの名誉有る一員として過ごして来たに違いないパーカー一家。表面的にでも、パーカー医師は聖人君子の顔をしていないといけないのでは?(ま、これは解釈の問題かも)けれど、今年のパーカー医師は、最初の登場シーンからアル中でした。ヨレヨレでイカレててはなっからメレディスに相手してもらっていない…。エドガーの存在が、聖人君子の化けの皮をはがして行く必要は全然なかった。一目見て、あ、この人、全然ダメじゃんってわかっちゃった…。


 肝心の、エドガーの異形性…。実はコレが今回とてもつらい。「笑う」ための風刺がないまま、最初からガンガンコメディで来られてしまった。
 …ことばこそ話さずとも、最初から人間のことばが聴き取れるエドガー。形勢不利と見るや、スタスタ歩いて自分で檻の中に入るエドガー、ラジオ体操するエドガー、鴨の血をラッパ飲みするエドガー、「ふるえているのね…」って歌詞を聞いて慌てて震える振りしてみせるエドガー……。
 空腹なのも何もわからず、ただただ弱って怯えていたエドガーはどこにもいなかった。キリスト社会的に「イノセントー無知」な状態を目の当たりにして「教育」が始まる、それは強烈な平準化でありノーマライズであり…。そういう「教化」が引き起こす悲劇をブラックに風刺して笑ってやる、そういうもう一つの基調テーマも、最初から人間ずれしてるエドガーの形象によって、あいまいになってしまいました…。


 だから、あの壮絶な「うさぎ」との葛藤の場面も、どうしてそんな急にエドガーが苦悩し出すのかわからない。あのエドガーなら、「おや、まだ死んでませんね、すみませんが、先に殺してもらえませんか?」なんて言い兼ねない。いや、ほんとに言うんじゃないかとヒヤヒヤしました(笑)。


 でも、いまこんな風に考えると、いっそ今年のエドガーは、そう言い放ってやればよかったと思います。
 アメリカ的笑いが笑いにならない風土でこれを良質のコメディにするなら、そういったキリスト社会の「笑い」を嗤い飛ばしてしまえば良かった。あんたら、えらいややこしい教条に縛られたはるんですねえ、めんどくさい笑いでカツカツですか?ご苦労様です、ここはひとつ、思いっきり遊ばしてもらいまっさ!って、全部笑い飛ばせば良かった。一幕の路線で、もしも最後まで笑い飛ばし続ける事ができたなら、それはそれで全く新しい解釈で、賛否は有っただろうけど(苦笑)、一貫性は保てたかもしれない。
 でも、今回もラストはあのまま、殺される直前のエドガーが愛しげにパーカー先生の手に触れる、なんて、去年こそ有れば良かった…っていうような切ない演出まで加わって…。その、不思議な辻褄合わせが、とても居心地の悪い違和感を残しました…。


 以上、ほんま、あんたナニモンやね、という感想をつらつら書いてごめんなさい。
 

 たぶんね、来週また見たら別の感想をもつと思う。だんだん舞台を楽しんで、どんどん好きになると思う(期待を込めて)。ただ、その気持ちをそのままにしておくには、去年のエドガーへの愛が強過ぎて…。あのエドガーが大好きでね。だから、今年のエドガーを好きになる前に書いておきます。すんません。私の都合でした、ぜーんぶ。