レプリークBis Vol.16 2009-9
ちゃんと発売日に買ってはいたのですが、ちょっと色々バタバタしてて、感想を書く余裕が無かったです。
ともかく、表紙のインパクトといったら……。今までで最強ですねえ。何なの、この色っぽい流し目は〜〜!!ってキレずにはおれないです(汗)。綺麗な目だなあ。粘土にへらですいっと切れ目を入れただけみたいな、潔い、御所人形のような目です。
目があまりに綺麗なので、今回は、目をつぶっている写真が2枚も混じっているのが残念でなりません(苦笑)。最初のアップの目を閉じた1枚は長い睫毛が見られて良いのだけれど、壁にもたれて寝てるのは、おーい目を開けろ〜〜!って思っちゃいました。毛布かぶってるしさあ、寝るなあ! もったいないもったいない、こんな綺麗な目なんだから、睨むなと微笑むなと、ウィンクするなと(ウソ、しないで汗)、いろいろやって頂戴よ〜!
表紙の目が何と言っても、ドギマギたじたじとなる一瞥で、もう有無を言わさぬ色気と冷徹さなのですが、見開き2枚アップの1枚目、正面から睨んでるのも良いですね〜〜表紙の俗世を超越した存在感とは別の、目の前に立ちはだかってるおっかない兄ちゃんって感じが、とってもいい。こういうのと交互に見せてくれないと、心臓がもちません。
続く頁の帽子放り投げも好きだなあ。やっぱり目がきれい!ホントに見事な流線型!手や足に動きが有るのもいいです。さすが、ハットさばきは年季が違います☆なんてったって、3歳からハット被ってますからね〜。と、ここまで全然お髭は気にならない(笑)。
次の写真。これはとても残念です、もっと良い写真有ったでしょうに!
毛布(ストール)いらない! 表情豊かな手を、毛布やらポッケやらに隠してるのも不満!そして寝るな〜〜。こんな遠くじゃ長い睫毛も見えないし…。この写真だけ、ヒゲが気になりますよ(苦笑)。
最後のお写真。これは大好き(笑)。目がいちばん優しいですね。ほんの少し見おろしてる感じがするのも、表情を少し穏やかに見せてるのかな。なんだか、言葉を一杯閉じ込めて口をつぐんでいるような…そんな表情に見えます。
目だけでこれだけ表情を変えてくれるんだもの、これで全身使っていろんな表現を繰り出してしまうとなると、こっちの心がブンブン振り回されてしまうのもしょうがないですね…。
11歳の、風の又三郎、手が長ーい!手のひらが大きい!こんな頃から、この人の手は豊かな表情をしてたんだろうなあ。
10年ごとに区切られる、その節目にさしかかっての今の彼。
時間は存在しない、という議論が昔から、哲学の領域ではありますよね。「時間は実在するか」という命題です。古くはアリストテレスやら、インド哲学やら、近代ではヘーゲル学派やら…。
つまり、どんな過去や未来の時間あっても、そこに流れる「時」は「今」でしかない。「今」が連続している以上、時間とは常に永遠に「今」でしかない…という。それでは、どうやって人は「時」を認識するのか。それは、「今」の連続が途切れた時…。というような、そんな議論だったかな、間違ってるかもしれないけれど(苦笑)。
止まりさえしないなら、時間は「今」の連続でありつづける……。そう考えるなら、森山未來という人は、まさにその「今」を、途切れることなく止まることなく生き続けているのは間違いない。それが彼の言う「刹那で生きる」ってことと、ほぼ同義なんだという気がします。「立ち止まらず、前でも後ろでも良い、常に動き続けていたい…」。彼がいろんなところで口にしてきた言葉だけれど、まさにそれは、哲学者が何千年も頭を悩ませてきた命題を、ものの見事に現実の中で実践して克服してるってことにもなるわけで…。
でも、インタビュアーさんが行人を評した「刹那的な生き方」というのは、「刹那で生きる」と同義ではないですね。「刹那的…」では、時間は不連続で主体化されていないし、流れを作っていないけれど、じゃあ、何が本質的にどう違って同じなのか、それも含めて、倉持さんの脚本と演出に、森山未來の表現がどうぶつかっていくか……うん、また一つ見所が増えました!
「刹那で生きる」彼が、行人という「刹那的な行き方」をする人間と出会う舞台、楽しみにしたいと思います。