『僕たちの戦争』@TBS「感じたこと」その1(続く)

 今日(18日)夕方まで仕事があり、また17日当日は、今回の仕事メンバーでもある大学時代の友人2人が我家に泊まるというので、見るのは今日までお預けだなと思ってた訳です。
 実際、ちゃんと見たのは18日夜だったのですが、実は17日夜中、ちょいと飲み直そうかとなって、そこで録画を流し見するチャンスがありました。TVつけたのは、台風情報をみるため。それが終わって、この時間って、何もおもしろい番組やってないねってことで、私がまあちょっとわざとらしく、じゃあ録画でも見ようかってボタンを押し…。最後までは見られなかったけれど。
 友人は私が未來ファンってことは全く知りません。だいたい理屈っぽいわ、口は悪いわ、しかもTVドラマ全般に懐疑的、なんて、まあとんでもない視聴者です。最初から、「なにこれ、時間を越えて入れ替わる?ありがちだねえ、陳腐だねえ」なんてさんざん(苦笑)。「CM多いなあ」なんてブツブツ飲みながらだったんですが、しばらくたって少し空気が変わってきました。私がつまみを取りに台所に立った時、2人が「ねえ、この主役、何て人?」「森山未來でしょ」「うまいね、若いけど」、なんて話し始めました。むふふ、と笑いをかみ殺しつつ席に戻り、「二役、難しいだろにね」なんてわざとらしい相槌。2人のうちの一人は最も口が悪い、というか、自分も本を書いてて一昨年とある出版賞を受賞した、なんて人間なんですが、それが、「すごいね。彼の演技がどうなるか気になって、ついつい見てしまうね」と真顔で言ってます。「ストーリーはもう先が読めたけど」なんて憎まれ口つきだったけど(苦笑)。


 とまあ、それはさておいて。


 この感想、かなり長くなりそうです。今日中には終わらないと思います。
 それと、以下は少しファンの目を捨てて書くことになりそうです。変だけど、どうしても、筆がそうなっちゃう。



 長いので、畳みましょうかね。





 ドラマは森山未來という存在が、大きな意味をもっていたと思います。彼にしかできない、彼だからこそ成立した、ドラマの世界だった。それは私の友人みたいな、ファンでもない人間も認めた動かせない事実じゃないかと思います。彼がドラマを牽引してたし、もしかしたら新しい解釈を生んだのかも知れないとすら思う。



 この作品は、原作を読んでも同じ感想を持ったんだけれど、健太と吾一が入れ替わるとは言いつつ、物語として本当の主人公は健太なんでしょうね。
 根は真面目で素直なんだけど、うまく自己表現できずイライラしたり反抗したり。時々、人生を斜に見ている風を装ってみるのも、実は自分をもっと何とかしたいと焦る気持ちの裏返しだったりする、普通の現代っ子の、ミナミの前では甘えん坊でさびしがりやな、優しい健太。その健太が、想像の埒外だった60年前の戦時中に投げ出されてしまう。同じ人間なのに全く価値観が違う(ように最初は見えた)人々や行動様式に翻弄され、何とか元の世界にもどろうとするんだけれど、徐々に、全く理解出来ないと思っていた行動様式の背後にあるのが、自分もよく知っている感情であることに気づいていく。そこに至るまでの、健太の魂の軌跡をたどる物語。また、ミナミから見るならば、徹頭徹尾、健太しか存在しない、そういう物語。
 戦争が終わったことを既に知っている鴨志田が回天に乗り込もうとしたのは、その時、自分の目の前にいる仲間を救うため、それによって自分の命も「生きる」のだと納得していたため*1
 健太が鴨志田の身代わりになって回天に乗り込んだのは、ミナミがこの世に生まれるため。でもそれは、自分がミナミに出会うため、再会するため、自分のため。
 ここで、時空を超えた2人が、同じ希求により同じ行動をとったことが結びつく。

 ただ、今回のドラマは、原作と大きく異なる演出がなされていましたね。それは、未來さんによる、完璧なまでの二役が成立していた、それが大きいのではないかと…。まずそのことから。



 ドラマが原作以上にはっきり示そうとしたのは、1945年の人間も2006年の人間も(原作は2001年だけど)、何も変わりは無いというその点で、それによって、戦争への問題提起を投げかけようとしたわけです。最初は何もかも違っていた健太と吾一が、徐々に徐々に近づいて行く。境界が薄れて行く。同じように、君ならどうする?という問題提起。そのためには、最初の2人が、外見は似てても全然違う人間だということが、明確に伝わっていないといけない。未來さんの健太と吾一は、確かに外見は似てたけど(当たり前:苦笑)、別人だった、見事に別人格だった。時には、同じ顔にすら見えなかったくらいに。いや、ホントに。
 ドラマだけの小道具にミサンガがあります。2人が別人であることを辛うじて示していたこのミサンガ。過去の世界でもがく健太は、それを常に触り、それに語りかけ、自分が「健太」であることを確認していました。回天に乗って突っ込む時にも、それに語りかけていた。
 でも、彼が願いそのものと一体化した時、ミサンガが切れます。それによって、海中に投げ出された健太と、海中に閉じ込められる吾一との境界が、完全に取り払われたことが示唆されたし、冒頭近くでミナミが言った「身代わり」というモチーフが、「健太」*2の再生をも暗示します。どちらの肉体であるかは、2度目の交錯の時には既に大きな意味は持たなくなっていた。ミナミの目の前に現れた「健太」が健太。


 一方、原作では、健太と吾一が再び沖縄の海で交錯する、それ以前には明かされなかったミナミの妊娠。これがドラマでは吾一に予め知識として与えられます。その意味は、吾一が健太として行きようと決意する、その動機を強めるためなんでしょうけれど、海に潜る前に吾一がミナミのお腹に手を当てて「いちばん大切なもの、俺の命よりも」という、その言葉を導くためでもあったんでしょう。
 吾一にとってミサンガに当たるのが、原作にも有った妹よしこの写真。吾一はそれをウェットスーツの左袖に挟み込んでいました。それが、彼が「吾一」である唯一の証。でも、上半身を切り取ってしまったウェットスーツだと、左袖にはしまえません。はっきり明示されていないけれど、吾一も、沖縄にあの姿で現れた時には、既に「吾一」である縛りから解き放され始めていた、とも考えられます。
 吾一は、自分の本来の居場所に戻りたいという気持ちだけではなく、ミナミの為にも、自分の身代わりとして死んでしまう健太と入れ替わろうと考えた。「吾一」が回天に乗り込むのが8月16日だなんて夢にも思わず、15日終戦の日までにそれをしようとした。でも、8月15日が過ぎ、16日になり、「健太」として生きることを覚悟し、「自分の命よりも大事なもの」を口にした瞬間、そこで初めて健太と交錯する。自分の命よりも、ミナミがこの世に生まれることを選んだ健太と交錯する扉を開く。
 ただ、原作で吾一が感じた羊水に包まれた感覚は「吾一の再生」を示唆する、とても大事なファクターだったんだけれど、それは吾一がミナミの妊娠を知らないからこそ効果的で印象的だった。その点はどうなのかな、なんて思ったり(苦笑)。



 でもでも、いかんせん2時間は短い、短かすぎる。健太が山口を殴るまでの経緯はもっと丁寧に描かないと行けなかったろうし、ミナミがおばあちゃんの秘密を知る辺りも、前後の連続が描き切れていない。もちろん、鴨志田との心の交流も。健太と吾一のそれぞれの11ヶ月をせめて前後篇の二本立てにして欲しかったな。未來さんの演技力であれば、十分その世界を成立させることができたはずだし。それが残念。


 ちょっと時間切れです。むちゃむちゃ眠い(苦笑)。
 上に書き残したことや、いつもの調子で、未來さんの素晴らしい芝居の数々チェックなどは、明日続きを書いてみます。


【以下,メモ】
 全くの別人格を見事に表現していたその姿と、その2人の境界線が薄れて行く、その過程。それぞれの内心の葛藤と、それから未來さんらしい、もの凄い身体能力。

  • ベッドから飛び降りて逃げ出す、エドガーさながらの姿。
  • 水中を自由自在に動き回る姿。
  • 山口をねじ伏せて、後ろ向きにもの凄い跳躍でヒラリと飛んじゃう、まるで牛若丸みたいな姿。
  • そうそう、その直前に山口に背中を向けて立つ後ろ姿も、すごく良かった。とてもよかった。あの後ろ姿には参りました。
  • 立て膝でお行儀悪くご飯かっ込むのも、「性格変わったな」って言われて「んんん?んんん!」とむんむん言ってるのも…。


 ああ、もっといろいろ書きたいけれど、中途半端でごめんなさいです…。あかん、沈没……。

*1:戦時教育によってだけど

*2:「 」付きは概念としての健太、という感じで使います。