悔しいこと

 8月15日、終戦の日
 鎮魂の日であるのはもちろんだけれど、過ちを二度と繰り返さないことを誓う日。
 私たちの父や母や、弟や兄や姉や妹や、恋人や友人が、そんな善良なふつうの人たちが、なぜまっしぐらに戦争への坂道を転がらねばならなかったのか。そして、その大切な人たちの命が失われると同じくらい無念なことだけれど、その大切な人たちが、なぜ人の命を奪うことに手を染めねばならなかったのか…そのことを深く考えねばならない日です。

 先週の月曜日(7日)の、NHKスペシャル硫黄島 玉砕戦 〜生還者 61年目の証言〜」は衝撃でした(25日に再放送があるそうです。→NHKスペシャル | 再放送予定)。
 2万もの若き兵士たちが硫黄島を死守する為だけに、地獄のような死を迎えた事実。その凄惨さもさることながら、彼ら若い魂が、捕虜となることを本気で恐れ、投降しようとする仲間を、背後から拳銃で射殺していたという事実に、より深い戦慄が走りました。捕虜になったら、戸籍に大きな赤いバッテンがつくと教えられていたそうです。そうなったら最後、自分だけではない、銃後を懸命に守っている、自分たちの大事な家族や恋人さえもがつらい差別や迫害を受けることになる、そんなことになるくらいなら、むしろ自分は生き残らずに進んで死のう、仲間がそうなるくらいなら、むしろ殺してやろう…。そう信じこんでいたというのです…。もちろん、そんな赤いバッテンは戸籍にはつきません。デマです。大きな国家ぐるみの、デマです。
 硫黄島から生還した方々の、嗚咽せんばかりの振り絞るような問いかけにも、言葉を失いました。「彼らは何のために死んだんでしょうか…?無駄だったなんて言ったらかわいそうですよね…、でも、じゃあ何のために死んだのでしょうか…この答えは難しいです…」。

 
 このNスペを見ながら、思わず健太や吾一や、未來さんさえも思い浮かべ、涙がとまらなかったのですが、それと同じくらいの恐ろしさを感じたのは、自らがその渦中にあって、何を信じていいかわからなくなったとしたら、私も皆が正義と認めるものにすがってしまうんじゃないか、という凍えるような感覚でした。


 私たちと同じ普通の人間だった60年前の人たち、その大事な人たちは、戦争でさえなければ、自ら死を選んだり、人を殺したり、絶対にするはずはなかったのです。でもその時にあって、彼ら彼女らはその道を選んだ、選ばされた。しかも、その選択を自らの意志でなしたように思いこまされた。人殺しではない、聖戦だという「正義」のもとに。
 聖戦って何?神の為に戦う正義の戦。その証拠に、命を捧げた人間は神になるんだ。神として永遠に靖国神社に祀られる、絶対の神たる天皇家ゆかりの靖国に。

 そして、10代の、20代の有為の若者たちが、自ら志願して戦地に赴いたわけです。何万、何十万の健太や吾一たちが、制度的な国家のコントロールの元に、それ以外の選択は与えられずに…。


 今日8月15日、日本の首相が、靖国神社にモーニング姿の正装で、ポケットマネーという3万円を携えて参拝しました。 

 おそらく政治家たちは、対外的な外交と、国民としての鎮魂の気持ちは分けて考えねばならない、というんでしょう。それは一見もっともに聞こえるかもしれないけれど、まぎれもない詭弁。

 根っこは同じでないといけないのです。
 対外的に戦前の日本の軍国主義を反省し謝罪したのなら、その為の大義名分であったシステムへの反省が無くてはならない。システムの精神的支柱に据えた靖国の機能を、政治に携わる人間は追認してはならない。首相はもちろんのこと、すべての立法行政司法の三権に責任を有する人間は、してはなならい。私はそう考えます。一国民が、自由意志で靖国にお参りする、それとは全く次元が違います。千鳥ケ淵戦没者墓苑に参拝するのとも、意味が違うのです。
 自国の若い将来ある若者を進んで死と殺意へ走らせた戦争、ふつうの若者を周辺諸国の国土に乗り込ませ、殺戮を実行させてしまった戦争。彼らが死を賭して守ろうとしたのは、何だったのか。自分の大事な人、両親や家族、恋人、子ども? でも、それは、本当に戦争によってしか守られなかったものなのでしょうか?「国力」「領土」?それは、本当に戦争を仕掛けなければ成らない程、危機に瀕していたのでしょうか?それを私たちは知らねばならないと思います。同じ事を繰り返さないために。
 いつも公人だの私人だのという議論が起こりますが、政治家の肩書きを有している限り、この問題において「私」の立場はあり得ないと思います。公用車で、国民の血税による自分のポケットマネーで玉ぐし料を払う。明らかに違憲です。
 そして大事なこと。靖国神社には、軍人しか祀られていないのです。広島や長崎や沖縄の地上戦、大阪や東京、日本各地の大空襲で亡くなった、数多くの一般の民衆は祀られていないのです。戦争に責任を負うべき国家指導者は合祀されているのに、です


 今回の、8月15日の、首相による靖国神社参拝に、私はどうしても、強く反対しないではいられない。アジアが自分の仕事のメインフィールドだという事もあるかもしれませんが、これはどうしてもそうせずにはいられません。
 家族を日本兵に皆殺しにされた中国の古老の話を、泣きじゃくりながら聞くしかなかった大学生の私の手を握り、あなたは悪くない、ここに来た日本の兵隊だって被害者なんだ、日本と中国とで、ほんとに沢山の人が死んでしまった、と、同じように泣きながら語ってくれた、その老人のカサカサの暖かい手が思い出されます。今の未來さんくらいの年齢だった私は、寝床に案内さてからも、その日に聞いた衝撃の数々に嗚咽が止まらず、朝まで一睡もできませんでした。あの、小さな村でたった一人過ごした数日が、忘れられません。



 ああ、ちょっと普段と違う日記になっちゃったな(苦笑)。でも悔しくって吐きそうなくらい。仕事にならないのよ…。吐くかしゃべるかどっちかなら、しゃべる。吐くのはいつでも吐ける(エキスプローラー)。なんていっても、今日は笑えないね(汗)。