『BatBoy』「数回見ての述懐」

 未來さんの演技って、舞台の枠を飛び越えるみたいなスケールの大きな遠心力と、微細ながらエッセンスそのものみたいな求心力(あらゆる注意力を一点に集中させてしまいます)を、その一身に潜めていますよね。動き一つとっても、単にアクロバティックというのではなく、いちいちとても美しい。高く跳躍し、光線を浴びるその指先やつま先、写真に撮ったなら恐らくどれをとっても美しい絵になってると思うし,洞窟で仰向けにぶら下がるその白い姿の、エロスとグロテスクとを合わせ鏡のように映す様なんて、もう意図して作るものではないだろうとしみじみ感じます。そうかと思うと、幼子のように無垢で邪気の無い動作と瞳を、嬉々として再現してくれちゃうので、人智を超えるコウモリ少年の生態、が、身近な私たちの感情に引きつけられて、ヒシヒシとリアルに心に響いて来ます。で,受け手の中で感情が増幅します…。
 いきなり大上段になりますけれど(笑)、人間の歴史を未開から文明への進化の過程と定義づけ,それに伴いワンウェイに「開化」することのみに「善」を認定め、それを全人類の「共通認識」としようとしたのが西洋的近代知の皮肉な「目的」であり「成果」だとすると、未來くんの演じたコウモリ少年は、それそのものに対しても大きな疑問符を突きつけています。劇中で,エドガーが何度も聖書の一節を口にすること,彼が絶望の淵にたたき落とされるのが信仰復活集会の日のことであること等の設定は,恐らくオリジナルでは相当の皮肉,もしくはブラックユーモアとなっていたのではないでしょうか。
 この,脚本自体が内包していた痛烈な皮肉は,事物の両面性を抉ることから生じてるのですが,この両面性を日本のコウモリ少年は、ものの見事に体現しきっていたと思います。「共通認識」(コモンセンス)に添うことへの喜悦とそれに裏切られる絶望という,相反する二極を、彼の身体能力と歌声・表情・台詞のすべては完璧に表現してた。それは単に「コウモリ」と「人間」という形象上の両面性を越えていたと思います,いえ,その形象に潜んだより深い両面性を,形象を極限まで表現しきることによって白日の下にさらけ出した,とでも言ったらいいでしょうか…。それは,(想像でしかないですが)脚本や演出の企図をすらも超えていたんじゃないかと。あんなムーブメントの可能性、完璧に人々の予知の範囲内だったとは思えない…。
 常に人の予想と期待をぶち壊してずっと遠い地平でとんでもないことをやってくれる、これがこの人の魅力の一つなんでしょうね、だから目が離せない。

 なーんて、私のつまらぬ述懐はどうでもいいですね(笑)。